「中田敦彦のYouTube大学」をされている、中田敦彦さんが、顔出しやめる発言、を出され、その実行としての「デスノート」の公開直後、顔出しやめる、を撤回する動画を出されました。
これについて、私が感じたことを書いてみたいと思います。
前提として、私は、「中田敦彦のYouTube大学」は7割位は視聴していると思います。歴史系や偉人伝系、現代社会系、アニメ系などはかなり視聴しました。でも、まだ視聴していない動画もあるようです。また、中田敦彦さんのオンラインサロンや物販にはあまり興味がありません。つまり、中田さんのコンテンツで自分に興味があるのは視聴しているけど、中田敦彦さんに心酔しているほどのファンではない、という感じの立ち位置です。
また、私の視聴スタイルとして、ほぼ内容中心の視聴スタイルです。ながら聞き中心です。スマホをポケットに入れて、音声だけ聞く、というスタイルがほとんどです。たまに気になる部分だけ画面を見たり、という感じです。
そのような距離感の一私人の記事だと思ってお読みください。熱烈なファンの方とは多分捉え方が違うと思いますので。
結論として私が思ったこと
芸能人が個人的幸せを求めてはだめなのか?芸能人だって一人の人間。ファンであっても、いや、ファンならばこそ、いいパフォーマンスを出す芸能人が、個人的幸せと世間に価値を提供することを両立しようとしているのを、もっと長い目で応援してみてもいいんじゃないか?と思いました。
以下に、そう思うに至った、私の行動などを時系列で書いてみたいと思います。
顔出しやめる発言について
すごく行動力があるし、新たな挑戦だな、と思いました。というのも、この発言の少し前に公開された、「両学長 リベラルアーツ大学」の両学長との対談You Tube動画で、両学長がプライバシーを守るために顔出ししない、ということをテーマに話す場面があったからです。その時、中田敦彦さんが、芸能人のプライバシー問題について問題意識を持っておられたのが印象的に感じました。
その対談があったことが頭にあったので、「こんなに早く実行に移すの?」という、実行力の速さに驚いたものです。
でも、私の気持ちを正直に言うと、「動画の質は落ちるかもな」という、否定的な感情があったのも否めません。それが、のちの、最初のアバター動画に対する、自分の行動に現れることになったと思います。
最初のアバター動画「デスノート」 怖そう。最初は見ようと思わなかった
数日前から、最初のアバター動画である「デスノート」の動画が、You Tubeのおすすめ動画に上がってくるようになってきました。でも、サムネの画像とテーマを見て、見るのをやめました。どうしてかを考え直してみると、
- 「デスノート」というコンテンツ自体に興味がなかった
- 「N」という字が書かれた、透明人間みたいな顔が、なんだか怖く見えて見る気がわかなかった
からだったと思います。もちろん、作られたのはデザインのプロだそうなので、デザインの意図は私の考えの及ばない深いところまで考慮して作られたんだと思います。ただ、単純に、そういうシュールなデザインを、中田さんの動画に私が求めていなかったからだと思います。生身の人間をアバターにするって難しいんですね。多分、人それぞれ、生身の中田さんにいろんなイメージや感覚を感じていると思うのですが、それを100%網羅したイメージを作る、っておそらく不可能だと思うんです。
例えば、アニメを実写にすると、そのファンだった人ほど、その違いに気づいて、「イメージと違う」と思ったりしますよね。そんな感じで今回の件を例えれば、実写をアニメにする、というようなものでしょうか。一度イメージが出来上がっているものと同じものを違うもので描くことの難しさ、というのでしょうか。例えば、みなさんが好きな実写ドラマを、声優は同じで、アニメにしたと思ってください。おそらく、世界でもトップクラスのアニメーターが作ったとしても何らかの違和感は生じるでしょう。
それは、比較対象があるからだと思います。比べやすいんです。比べれば違いがあるのは当然ですよね。例えば、会社でも、代替わりしたときって、比べられますよね。また、例えば、会社で担当が変わったときも、前任者とどうしても比べられる。ですから、生身の中田敦彦さんがアバターに変わったときに感じる一定程度の違和感は、やむを得ないのかなと思います。
つまり、アバターに対する視覚的な違和感、があって、まず、見ようとも思わなかったんです。
では、その違和感の根底にある原因は何か?
以上のような違和感の根底にある原因はなんでしょうか?ちょっと考えてみました。
一つは、他者が変化しているのに対して自分が置いていかれるような感じがすることへの恐れです。違和感の原因が一見、中田さんや中田さんのチームの側にあると思いがちです。私の心の中にも、言葉にはしませんがそういうイメージで捉えていたフシがあります。でも、よく考えてみたら、実は違和感の原因は自分の中にもあると考えることもできるんじゃないかと思い始めました。つまり、変化していこうとする人やグループに対して、現状維持を望んでしまう、という気持ちです。そして、なぜ現状維持を望むかというと、他者が変わっていくことを寂しく思うという気持ちです。置いていかれるような寂しさです。
もう一つが、「面白くなくなっていて、失望する」という経験をしたくなかったからかもしれません。中田さんには今までのような面白くてためになるコンテンツを作ってほしい。そして、今までビジュアル的に中田さんのオーバーで元気のいい動作も面白く感じていたので、その動作のビジュアル的な面がすっぽり抜けてしまってつまらなくなっていたら、残念だ、そう思う気持ちもあったのかもしれません。
顔出しやめる発言撤回動画を少し見て
そんなこんなしているうちに、唐突に、「顔出しやめる発言を撤回する」という内容の動画が出されました。
「あれ?こんなに早く撤回するの?」とびっくりしました。で、その動画で、本当に力を入れて「デスノート」の動画が作られたんだ、ということを知りました。
その動画の話を聞いているうちに、「そんなに力を入れて作られたのなら聞いてみよう」と思うようになりました。私にとっては、撤回動画が逆にアバター動画視聴のきっかけになったわけです。
「デスノート」の動画を見てみて まず感じたこと 声に違和感
まず、動画が始まって最初に思ったことは、「中田さんの声の聞こえ方が、なんだか耳元で話しをされている感じがして、なんだか違和感がある」でした。息遣いが入ったり、耳元で話されている声の雰囲気から、今までの「中田敦彦のYouTube大学」と何だか違う感じがしたのです。
思い返せば、中田さんは今まで板書の前という少し離れた距離から、いきおいよくマシンガントークで話されていたので、それが、耳元で話される用な感じに違和感を感じたのかもしれません。
途中から 引き込まれていく いつもの中田さんの勢いが出てきた
ですが、話を聞いているうちに次第に引き込まれていきました。だんだん中田さんの話に熱が入り、いつものように話にリズムと勢いが出てきた気がしました。前編の途中くらいから話に引き込まれて行きました。最初の方に感じていた声の違和感も気にならなくなってきました。
それからはもう怒涛の展開と話し方で、後編に入り、後編も非常に面白く楽しませていただきました。
見終わった後の感想
私は、「中田敦彦のYouTube大学」に対して
- 求めている役割は、難しいことや長いコンテンツの概要を面白く届けてくれる
- 視聴の際は、音声中心で視聴している
というスタンスを取っています。
そんな私にとっては、アバターで行われた「デスノート」は、十分に満足の行くコンテンツでした。「デスノート」の知的スリリングさや問題意識などの概要を小一時間で知ることができたからです。この内容を自分で調べようとしたら、どれだけの時間がかかっていたかわかりません。というか、デスノートというコンテンツに興味を持つこともなかったかもしれません。
ですので、「デスノート」のアバター動画は、私にとって十分満足の行くものでした。
顔出しをやめることとその撤回について ①犠牲になるもの
もちろん、生身の中田敦彦さんがオーバーなアクションで私達を楽しませてくれる方がアバターのコンテンツだけよりも楽しく動画を見ることができるでしょう。
でも、そのおかげで中田敦彦さんが犠牲にすること、そして長い目で見て私達視聴者が失ってしまうことに思いを馳せてみてもいいかもしれません。
中田敦彦さんは、顔出しを続けることによって、プライバシーやその他いろいろなものを犠牲にしているということに言及されていました。芸能人であることで、コンテンツで人々を楽しませるのはいい、でも、だからといって、中田さんのコンテンツ提供に関係のない家族まで巻き込んで一般人の好奇の目にさらされることはおかしいんじゃないか、というようなことだったと思います。
私もその感覚には賛成です。芸能人だって、私達と同じ人間です。私達に私生活があり、人に見られたくないと思うように、芸能人の方だって、人間として誰にも見られたくない私生活があり、家族があるんですからね。
顔出しをやめることとその撤回について ②私達が失うもの
中田さんは、顔出しをしなくなることによってコンテンツの質が落ちるのではなく上がる、ということもおっしゃっていたように思います。どのように上がるか、私には予想できませんが、中田さんがどのようにそれを実現して来られるか、見てみたいという気持ちもあります。それが、未来の新しいエンターテインメントの道を開いてくれるかもしれません。
ですが、顔出しやめる発言を撤回されたことによって、その新しい質のコンテンツの可能性が失われたか、少なくとも先送りにされたのかもしれないな、と思います。
というか、顔出しをやめることで一番がっかりするであろう私達にも、顔出しをやめることによるメリットが有るんだ、ということを捻りだせるその姿勢、それこそが、中田敦彦さんのさすがだなと思うところです。
また、私が思うこととして、家族を守るためにエネルギーを割かなければいけなくなります。本来ならばコンテンツ作成に注げたエネルギーを、自分や家族を守るために割く割合が上がることは、コンテンツを楽しませてもらう私達にとっても損失といえるのではないかと思います。
まとめ
中田敦彦さんが、顔出しやめる発言を撤回されたことは、私にとっては残念でした。中田敦彦さんには、思いのままチャレンジしてほしいと思います。なぜなら、いろんなことに対する問題意識を私達に思い起こさせてくれるからです。
中田さんが顔出しやめる発言をされるまで、正直、芸能人の顔出しについて深く考えることはありませんでした。というか、有名人っていいなー、という程度の認識でした。
でも、一度公開されたプライバシーは決して取り戻せないという普遍的な問題意識と、現代の日本社会における報道やプライバシー問題について考えるきっかけをもらえました。
ですが、朝令暮改とも思えるこの機敏な方針転換、「いやー、まいった、さすがだ」とも思いました。この急な方針転換で話題になることや、顔出しやめる発言に賛成する意見、反対意見、色々出てくる事もある意味想定した上で更にその後の戦略を練られるのかなー、と思うと楽しみです。そういう行動自体もエンターテインメントにされているのかもしれません。相方の藤森慎吾さんのコメント動画「【前言撤回らしいな】」という動画も、相方としてのいい空気感を感じさせられて面白かったです。
これからも遠くから楽しみに学ばせていただこうと思います。
読んでいただいてありがとうございました。
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