【ネタバレあり】「中田敦彦のYouTube大学」「デスノート」の感想

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「中田敦彦のYouTube大学」の、「デスノート」という漫画についての動画を見ました。初めてのアバター動画、ということで、どうなるのかと思っていましたが、見終わった後、非常に考えさせられるところがあったので、記事にしてみたいと思います。

「正義」を人は実現できるのか?

この「デスノート」の講義を聞いてまず思ったのは、人は正義を実現することはできるのか?という問いです。

この物語の主人公は、世の中の凶悪犯罪者だけを殺す能力を手に入れます。そして、最高の知性を発揮して、世の中を良くしようとその力を使います。

そして、現にその結果、凶悪犯罪の件数は減る、というストーリーで話は進んでいきます。それなら万々歳じゃん、と思いがちですが、現代社会ではそれは不可思議なこと、あってはならないこととして捉えられます。

さて、どちらの感覚のほうに皆さんは納得いきますか?

結果として凶悪犯罪が減ったからいいじゃん、と思うか、現代司法の枠組み以外で人が人を意図的に殺すことのなんだか得体のしれない怖さを感じるか、です。

この話は、悪い人はいなくなったほうが世の中は良くなる、という気持ちを自分も心のどこかで持っている、ということに気づかせてくれました。しかし、その気持ちは、実は大変に危ういものだ、ということです。

正義を実現していると思うことの危うさ

正義は人の数だけある、という言葉を聞いたことがあります。凶悪犯の中には、自分はいいことをしているんだと思う人もいるらしいです。

自分が「これこそは正義だ」とか、「正しいことをしている」という感覚を持ったときは、実は自分の感覚を違った視点から眺めてみることも必要かもしれない、と思いました。でも、まあ、実際渦中にいる間はなかなかそんな視点は持ちにくいんでしょうけどね。

人が大きな力を持つことの難しさ

主人公は、最初は、犯罪者を対象にしていました。いってみれば、一般の人達からすれば、世の中からいなくなってくれたほうが嬉しい人たちです。

でも、世界各国がこの異常さに気づき、この異常事件の犯人を暴き出そうとするようになります。主人公は自分自身がやったとバレる危険が迫り始めると、主人公はその力を自分の身を守るために使い始めます。無実の人をも自分の身を守るために殺し始めるのです。さらに、周りの人をも巻き込んでいきます。誰もが羨む能力をいくつも持つ主人公ですが、知能や能力がいかに高くても、人は自分の身を守るために自分の力を使うのが自然、ということです。

これは、歴史を見れば色んな所で見ることができることだと思います。国民のためと言いながら自分や取り巻きの人だけが衣食住に満足し、国民の多くが苦しむ国。最初は善政を敷いていたのに途中から愛欲や承認欲求に溺れて国民を顧みなくなった皇帝や王。大きな力をうまく使えず身を滅ぼした例は枚挙に暇のないほどだと思います。

たまたまですが、ここ最近読んでいる、「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち」(塩野七生著)にでてくる、「カリグラ」や「ネロ」の話を思い出しました。「カリグラ」も「ネロ」も、最初は、先代の皇帝たちや周りの人たちにお膳立てされてとても恵まれた状態で皇帝位についたのです。ですが、その恵まれた地位や力を活かせず次第に国家に悪影響を及ぼしていきます。しまいには暗殺という手段で、統治活動のみならず人生まで強制終了させられてしまうという話です。

「デスノート」の主人公も、大きな力を最初は世界を良くするために使っていたけど、段々と自分を守るために使い始め、周りを巻き込んで不幸にしながら破滅への道を歩んでいく、という、なかなか笑えない展開になっていきます。

幸い、自分にはその思いを現実化できる大きな力は備わっていません。でも、もしそんな力があったら、じゃああなたはその力を使いこなせますか?という、そんなことが問いかけられているように感じました。能力・お金など、使う力、大事ですね。小さなところから使う力にも気をつけて磨いていきたいと思いました。

殺されていい人はいるのか?

先程、犯罪者なら、死刑執行で殺されてもまあいいかな?と思ってしまう発想がじつは怖い、ということを書きました。

殺されていい人はいるのでしょうか?これは、話を勧めていけば、死刑廃止論にまで及びうる話なのかもしれません。

この話を進めていくに連れ、死刑という制度も、言ってみれば、人が人を殺すという制度だから、よく考えれば危うい制度だな、と思いました。

確かに、現代日本の死刑制度は、適正手続に沿った刑事裁判手続という、非常に厳格なフィルターを通ったあとでの刑罰なので、誤判の可能性は非常に低いでしょう。

そうだとしても、わずかですが、冤罪事件はあると聞きます。捜査機関も検察官も裁判官ももちろん弁護人もそれぞれが真摯に職務を遂行されていることとは思いますが、それでも現実に発生しているそうです。神ならぬ人がやる以上どうしても避けられないのかもしれませんが、本当は何もやっていないのに犯人に仕立てられて人生の大部分を過ごすなんて耐えられないでしょうね。

死刑って、実は危うい制度なんでしょうかね?死刑廃止論ってどうなんでしょう?そんなことを考えるきっかけも、この「デスノート」のストーリーを通じて与えてもらえたかもしれません。

人を殺す側の精神に影響はあるのか?

鮮やかな知能作戦で人を殺しまくった主人公、さて、まともな精神状態だったのでしょうか?

人が人を殺す、ということは、現実世界では、かなり精神に影響を及ぼすそうです。例えば、実は死刑執行のボタンを押す職員の方も、誰が押したかわからないように複数人で押す形になっているそうです。それだけ、人が人を殺すということが人の精神面に与えるダメージは大きいというわけですね。

もしかすると、主人公は、人を殺す度に、この、人を殺すことに伴う精神的ダメージに精神的にやられていったんじゃないか、なんて思います。

この、人を殺すことに伴う精神への影響は、「罪と罰」という、ドストエフスキーの長編小説を通じても書かれています。この物語では、物語の初めの方でラスコーリニコフという主人公が、金銭的な困窮と狂気じみた正義の論理から、金貸しの老婆を殺します。それから色々と物語が進んでいくのですが、主人公が罪の意識に耐えられなくなっていく様が書かれているのでなかなか読み応えがありました。

また、Netflixの「ナルコス」というドラマでも、主人公が自分や家族を守るために次々と敵を殺害していく様が描かれていました。次々と殺してエスカレートしていく点で、デスノートの主人公とはどちらかというと、こちらのほうが近い感じではありますね。

知性や能力の優越は命の重さを超えられるか?

知性や能力が優越しているなら、人の命や想いを思い通りに扱っていいんでしょうか?これは、改めて問われれば、多くの方が「もちろんそれはだめ!」と言われるのではないでしょうか?

でも、主人公は、卓越した知能とルックスの良さ、運動神経の良さなどを駆使して、自分に惹かれて寄ってきた人の想いをも利用して自分を守ろうとする展開になっていきます。

普段は意識していない人間の暗部をえぐり出すような怖さがありますね。

まとめ

このような感じで、練られたストーリーを中田敦彦さんのエネルギッシュなトークで語られるのを聞きながら色々と考えさせられました。

もちろん、人狼ゲームの達人同士が繰り広げるような高度に知的な駆け引きがストーリーの面白さの多くを占めていて、この部分も面白かったのですが、それ以外にもふと頭に引っかかってきたのが、上記のような問題提起です。

なかなか深いテーマを扱っていたんですね。いやー、面白かった。アバター講義については、これくらいの質の講義であれば私はアバター講義でもいいかな、と思います。だって、無料で聞けるんですから。この講義のためにどれだけの時間準備されたんでしょう。

私個人の意見としては、顔出しよりも、プライバシーや個人としての幸福追求も両立して無理のない範囲で「中田敦彦のYouTube大学」を続けていってもらいたいと思います。中田さんが無理をされて、その反動で、「プライバシーや家族の幸せまで犠牲にしないといけないなら、もう、『中田敦彦のYouTube大学』やーめた」、なんてなったら見ている私達にとっても残念ですから。

中田さんにはこれからも、個人としての幸せと新しいチャレンジの両立を期待したいと思います。

読んでいただいてありがとうございました。

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