*この記事はネタバレを含みますのでご注意ください。
21巻は大きく2つのことが描かれます。
- 圧倒的に強い無残
- 縁壱の人生
無残復活!この緊張感とスピード感と恐怖感!
無残が復活します。まるで悪夢の始まりかのようです。復活の場面も劇的なカットで描かれます。
無残復活を輝利哉様が察知し、復活の直前に全隊士に「無残に近づくな!待機命令だ!」というような司令を出します。ところが平隊士が復活前の、大きな心臓のようなさなぎ状の無残を見つけてしまう。隊士が話していると次の瞬間にさなぎ状の心臓から空中高く飛び出した無残が対したちを見つめる場面が描かれていて……。次に無残が腕を一振り…。そして圧倒的速さで隊士全員がやられる……。このあたりの緊張感とスピード感は圧巻です。これを動きのない漫画で表現できる作者の構成力と画力に感嘆しました。
無残の側から見た論理 「しつこい」「異常者」
無残の側から見た鬼狩りたちに対する論理が展開されたのが意外でした。
無残はこう言います。
- しつこい
- 鬼狩りは異常者
無残の論理からすると”世間の大多数の人は常識人→だからしつこくない(諦めて日銭を稼ぐ生活に戻る)”。対して、”鬼狩りは異常者→だからしつこい”というわけです。
中々ショッキングな見方ですよね。だって、我々読者から見たら鬼は人を撮って食うし残虐だし悪物で鬼狩りはその鬼を退治して人を守ってくれる正義の味方。ヴィジュアルで見ても鬼はおぞましい姿をしている一方鬼狩りは人間だし。
でも無残は言います。鬼に食われたのは天変地異にあったのと同じで受けいれるしかないんだと。多くの人は鬼に食われたことを受け入れて、生き残ったことで満足し、残りの人生を生きていくと。
なるほど。言われてみればそうだと、私も無残の論理に納得しそうになりました。無残め、力が強いだけでなく、論理も駆使して思考の隙もついてくるのかと。(しかもイケメンだし。)中々やるじゃん。足るを知る人生こそ幸福への道、と、幸福論や人生論まで説いてくるわけですよ。圧倒的悪者なのに。なんでしょう、この、あたかも賢者のような知的マウンティングは。現実社会でも、悪い事をしようとしている人でも論理を駆使しようとする人はいるようです。でも、いくら論理は正しくても、それが正しいとは限りません。論理は後付でいくらでもいじることが出来る、ということが結構あります。重要なのは、話し手は何を目的としてその論理という道具を使おうとしているかです。そうです。論理はあくまでも道具に過ぎません。その論理というもっともらしく知的に見える道具を使って、話し手はどういう効果をもたらそうとしているか、そこを見抜く目といいますか、感覚といいますか、嗅覚のような、本当の意図を見抜く力が必要になってくるわけですね(炭治郎で言えば嗅覚、伊之助で言えば触覚、カナヲで言えば視覚、がそれらを比喩していると思います)。この無残との場面で無残が意図していたことは何でしょうか?はっきりとは書かれていませんので私の想像にすぎませんが、炭治郎達の心に迷いを生じさせることだったのではないでしょうか。
しかも「殆どの人間がそうしている」と、よく言われる、日本人にとってのキラーワード「皆さんそうされていますよ」と言う言葉まで駆使して炭治郎や読者に揺さぶりをかけようとしてきます。いやあ、痛いところをついてきます。そうやって私もどれだけ本当にしたかったわけではない選択をしてきたか。無残は人の心を揺さぶる術を心得ているんでしょうか。そうやって、厳勝や狛治を始め多くの悩める人間を鬼にスカウトすることに成功してきたんでしょうか。なんだか、厳勝や狛治が無残に誘われて鬼にされた場面が思い浮かびました。人はいつも強くいられるわけではありません。狛治のように、まっとうに生きようとしていたのに意地の悪い人達にひどいことをされて人や世間への不信感をいだき、人間社会に絶望したタイミングで無残に会い、鬼になることへ誘われる、といったこともあったでしょう。心の弱っているとき、人間社会への不信感と絶望で心が一杯になっているときに近づいてくる存在はある意味、唯一の解決策に思えるかもしれません。でも、その存在が導いてくれた、その先にあったのは鬼への道だった、と……。ある意味、現実社会でも心が弱ったときに近づいてきて助けるふりをして、実は良からぬ方向へ導かれていた、なんてこと、あるかもしれません。なんだか現実社会でも注意しないといけないなー、と思わせられる場面でした。
しかも、「異常者」と、正義の味方である鬼狩りをあたかも変人であるかのように言ってきます。たしかに柱の面々を見ても変人ばかりだ、と変に納得仕掛けました。「異常者」という言葉も、ムラ社会では爪弾きにされる要素ですもんね。ムラ社会では異常者は村の平穏を乱すものとして村から追い出される事が多く、そうでなくても肩身の狭い思いをさせられることが多いから、異常でないように装い、皆と同じようなふりをして周囲に合わせようとしがちです。甘露寺さんがそうですよね。「異常者」という言葉は甘露寺さんに1番グサッと刺さりそうな気がします。「ブキャッ」とか言う効果音を出しながらダメージを受ける気がします。
こういう無残の発言を聞いていると、無残は日本人の心の弱みというか大多数の人の心に何が刺さるかをよく見抜いているな、と感じました。
さて、では炭治郎はどんな反応をしたかというと……。
全く動じませんでした。さすがです。
でも、無残に歯が立ちません。
無残との戦いの場面を経て、炭治郎の先祖炭吉と、日の呼吸の使い手縁壱とのやり取りの場面に話は展開します。
縁壱の側から見た縁壱の人生
縁壱の人生をたどる展開になります。この前の20巻では兄の厳勝から見た縁壱の人生でした。今度は反対側、縁壱から見た縁壱の人生になります。
20巻では縁壱の剣技がいかに神がかったすごいものであったかが描かれています。無残に勝ったということも伏線として出てきます。
21巻では、無残に勝った場面がついに出てきます。強さや身体能力の高さも確かに出てきます。
ただ、21巻で特に感じるのが縁壱の純粋無垢さと人生の無情さといいますか、縁壱は心が優しくて本当は幸せな平凡な人生を望んでいたんだなあ、というほのぼのしたことが感じられます。でも、人生の無情といいますか、身体能力の高さといい、宿命だったんでしょうか、平穏な生活は一夜にして奪われ、鬼狩りとなり、無残を圧倒する場面が描かれます。
しかし執念の無残、生き延びます。縁壱はしくじった、といいます。
「しくじった」この言葉、この21巻で、もうひとりの人物がこの縁壱の言葉の前に言っています。采配を取っていて無残の復活を許し、隊士を止められずに惨殺された後に輝利哉様が呆然として言った言葉です。いま無残を仕留めるために何百年もの間何人もの人たちが積み重ねたことを最後の最後でし損ねた、これまでの先人たちの努力が無駄になった、そういう思いで発した言葉です。もうどうしようもない、終わりだ、そういう、諦めの気持ちで輝利哉様はこの言葉を発せられたと思います。このまま総崩れか、そう思わせる絶望的なニュアンスで発せられた言葉でした。この輝利哉様の場面では妹の必死の激で輝利哉様は気を持ち直し、気を取り直してまた新たな指揮を取り始めます。そういう場面でした。
そして2度めに現れた縁壱の場面。縁壱もまた諦めの気持ちだったのでしょうか。圧倒的な人間離れした肉体と呼吸と体が透けて見える視覚。努力ではなく生まれつき持っていたものでした。「無残を倒すために特別強く造られてきて生まれて来たのだと思う」と縁壱自ら言っています。
自分の使命というか運命を自覚していたようです。「心苦しい」と言っています。
他の鬼狩りたちからも兄厳勝が鬼になったことの責任を追求されて鬼狩りからも追放され、自刃せよとの声まで上がったとのこと。鬼狩り達、ひどいやつだ。自分たちがそこまで強くなれたのも縁壱のおかげだし無残を倒せる可能性があるのも縁壱一人だけだっただろうに。ここでも人間社会の冷たさというか、本質が見えていないところというかが感じられます。でも、わずか6才のお館様が止めてくださったというのが驚きです。産屋敷家は物事の本質を見抜く目が代々備わっていたのでしょう。そしてそれは年齢に関わりなかったということも。普通に多数決だったら縁壱は自刃させられていたであろうことを考えると本質を見抜くことと数の多さということは必ずしも結びつかないんだなと思います。だから漫画として面白いんでしょうけどね。
そして炭治郎が縁壱は深く傷ついてここに来たんだろうと感じ取ります。でも、炭治郎はかける言葉も見つかりません。炭吉も同じようです。なんと言葉をかけたらいいんだろう。縁壱の表情にそれほど変化はありません。いつものように涼しい目元です。でも、なんだか遠くを見つめるような、焦燥したような雰囲気も漂っています。縁壱はどんな気持ちだったのでしょうか?
推測に過ぎませんが、縁壱の場面の前に出てきた輝利哉様の場面で同じ「しくじった」という言葉が使われていること、輝利哉様が諦め、呆然とし、これまでの多くの人の努力を無にしたという、おそらく自分を責める気持ちの描写があったことを考えると、縁壱にも、表にははっきりとは現れていませんが、諦めと大きな自責の念とがあったことでしょう。特に自責の念が大きかったであろうことは「心苦しい」という言葉に現れていると思います。
縁壱に鬼狩り仲間から自刃せよとの声も上がったとの描写がありました。ここで縁壱自身が考えていた責任の重さと鬼狩り仲間が考えていた責任とは大きな重さの違いがあったと思っています。
鬼狩り仲間が追求しようとしていた責任はあくまで鬼舞辻を倒せなかったこと、珠世さんを逃してしまったこと、兄厳勝が鬼になってしまったことという現在鬼になってしまったことへの責任を取るというものでした。そして、責任のとり方も自刃、という、自分で自分の命を取る、今で言えば引責辞任みたいなものですね。けじめをつける、という、いわば精神的な自己満足的な責任のとり方でした。本当の問題解決にはつながらないですよね。縁壱が死んでは却って無残を喜ばせるようなもの。でも、日本社会では美学とされ世間が納得する責任のとり方です。でも、鬼を倒すという自分の使命を自覚していた縁壱と鬼を倒すという目的をしっかりと見据えていたお館様はそのような責任のとり方を拒否しました。あくまで目的ファーストで考えていたのです。
では、縁壱自身が感じていた責任とはどのような責任だったのでしょうか。それは、生まれた時から特別な体と能力を与えられていた自分が、鬼の始祖である無残を倒せなかったことの責任。自分の力を超えたところから託された使命を果たせなかった責任。もしかすると、無残を倒す寸前で無残に問いを発した時間。鬼が連れていた鬼の娘に目をやっていた時間。その時間のうちに畳み掛けるように無残に攻撃を仕掛けていれば無残を倒せたかもしれない。なのに自分の攻撃を受けて無残が困惑しているときに勝利を確信してそのような隙を見せてしまったこと。そのわずかのツメの甘さによって、鬼舞辻にとどめを刺すその瞬間に焦点を合わせていた生命の奇跡とも言える自分の体や能力を無駄にしてしまったことに対する後悔。その感じている責任の大きさは隊士が現在の事象しか責任の対象として捉えていないこととは比べ物にならないくらい大きいと思います。
そして、自分が自刃するだけでは却って無残を喜ばせることも縁壱はわかっていたと思います。だから潔しとされる自刃という道をあえてとらず生き延びる道を選んだ。諦めめて自刃する、という最悪の事態だけは避けた。でもどうすればいいか方法が見つからない。そんな中で炭吉の家を訪れたんだろうと、推測します。
炭吉の家を訪れたときの縁壱の言葉がまた素晴らしい。
幸せそうな人間を見ると幸せな気持ちになる
この世はありとあらゆるものが美しい
この世界に生まれ落ちることができただけで幸福だと思う
by縁壱 出典 鬼滅の刃21巻 吾峠呼世晴
もうなんていい人なんだろうと、縁壱の人柄がにじみ出ません?この言葉で毎朝始められたら清々しく起きられそう、なんて思いました。縁壱語録を集めたらのんびり暮らしの日めくりカレンダーになるかもしれませんね。
炭吉も炭治郎も掛ける言葉が見つかりません
そんな時、抱っこを無邪気に求めた炭吉の娘。抱っこをした縁壱の目に涙が浮かびます。何を思っていたんでしょうか。抱っこもできす、生まれることすらできなかった自分の子供を思って泣いたんでしょうか。今後自分が死んだ後復活するであろう無残にこの子がやられないことを願って泣いたんでしょうか。それとも、赤子が無邪気に嬉しがる姿に何故か心が震え涙が溢れたんでしょうか。
そしてうずくまって泣く縁壱に炭吉の妻のかける元気で無邪気な言葉。縁壱が立ち上がります。炭吉もそれを見て涙します。
絶望に満ちた世の中をほんの少しでも照らすのは強さでもなく賢さでもなく純粋で無邪気な心。そして純粋無垢な小さな”命”。
「命をなんだと思っている?」無残にとどめを刺そうとした直前に縁壱が無残に聞いた言葉です。前述のように無残に逃げるための僅かな時間を与えてしまった問です。縁壱は何を期待したのでしょうか?無残からは期待していた答えは聞けたのでしょうか?無残は命なんてなんとも思っていないのではないでしょうか?あるいは、自分の栄養に過ぎない、ぐらいの思いしかないかもしれません。そんな事聞かなくてもわかっているのでは?縁壱の意図は何だったのでしょうか?
”命”
21巻は”命”がテーマになっているように思えました。
以上、21巻を読んで感じた自分なりの解釈を書いてきました。ここまで読んでいただきありがとうございました。
皆さんはどんな感想を持ったでしょうか。ひとそれぞれ、また読んだ時の状況によって感想は違うかもしれませんね。
ではまた、次回も機会があれば読んでみてくださいね。
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